荒野を駆ける荷台つきの馬車。
荷台が揺れている。けたたましい蹄の音と巻き上がる砂埃が勇ましい。
定期便の馬車には数人の男がひしめき合い、暑苦しいことこの上ない。どれも似たような服装で、大きな籠を大事そうに抱えていることまで同じ。ヒュームの下っ端商人にありがちな、黄ばんだ歯が下品な笑みから覗く。
そんな汗臭い荷台の隅に座る場違いな人。その少女はシーツのような布をまとっていて、それに包まるように座っている。
後頭部で纏められた金色の長髪は自然で、滑らかだ。瞳の色はエメラルド。肌は白く、水々しい。頭髪から尖った耳の先端が見えており、エルフの血族だということがわかる。
周囲の男共は時折その女を横目で見たり囃し声をかけたりして様子を伺っている。理由は彼女がエルフだから・異性だから・衣からさらけ出された白い足に興奮しているから、など様々。しかし彼女はそれらのちょっかいには一切反応しない。ただ、黙って流れる景色を眺めている。
「お譲ちゃん、パパとママはどうしたのかな?」
「一人でおつかい?エライねぇ~」
両脇の二人が明らかに15は越えている少女に鼻がかった声で話しかけた。
「清らかなるクソエルフに話しかけてんじゃねぇ!その女、今すぐ放り出せ!」
荷台の前の方から罵声が飛ぶ。
「おお~っと、怖い怖い。大丈夫でチュよ~か弱いエルフたんは僕が守ってあげまチュからね~」
「行き先はどこかな?おじちゃんがついていってやるよ」
無精髭の男二人が少女に迫る。臭くて湿っぽい息がかかるが、それでも少女は無反応。眉一つ動かさない。
「どうしたの?おじさんとお話しようよ~」
さすがに焦れてきたのか、少女に一層近づく男。間近にある無防備な足を舐めるように眺め、手を伸ばした――。
“ブヒャヒ~ン!!”
突然、馬の悲鳴と共に馬車が急停止した。
なんだなんだと慌てふためく男衆。
「イフルだっ!イフルが出たっ!」
前方から運転手の悲鳴が響いてきた。運転手の叫ぶ“名”に顔を青ざめさせる男衆。
身を乗り出して馬車の先を見ると、そこには全身赤色の人型植物が6体ほど道を塞ぐように突っ立っている。
「ひゃぁっ、なんでこんな所に!?」
「た、助けてぇ!」
怯えてうろたえる男衆。そしてそれがいけなかった。
悲鳴を聞いたイフル達は両腕を振りかざし、馬車に向かって突進を始めた。馬は慌てて嘶き、運転手は転げ落ちる。
滅茶苦茶にもがきながら後退する馬車。男衆は必死に荷台にしがみ付く。
運転手は地面を這うように逃げるが、イフルの腕が容赦無く彼の足を貫いた。
「ぎゃぁぁ、い、イダイ!たズけでっ!!」
涙を流して馬車に手を伸ばす。だが、乗客はただ怯えるだけで、長年連れ添った馬達も逃げるのに必死。
飛び上がる影――――
哀れな男の背中にイフルの鋭く尖った腕が突き刺さる―――その刹那。
『ケェェェッ!!』
悲壮な泣き声が周囲に響いた。それは人のものではない。両腕を切断されたイフルのものである。
その悲鳴から4秒。
馬車の前に立ちふさがった6体の怪物は、2~5くらいのパーツにそれぞれ切断されて大地に転がっていた。
荷台で蹲っていた男衆はその事実に気がつくのにもう暫くかかったが、間近にいた運転手はその惨劇の一部始終を見ていた。だからこそ、目の前に立つ少女の存在を信じられずにいる。
その戦乙女は左手に持つ翡翠色の剣を一振りし、血のりを飛ばす。そして衣の内に隠された鞘にそれを収めた。
少女の美しくも無表情な横顔は、運転手の脳裏に深く刻まれた……。
ダブルアイズ
STORY ONE
「トビィ、ちょっと待ってよ、トビィ!」
岩場を駆け抜けるつり目の少年(トビィ)。彼は一足跳びで1メートルは越えていく。だから楽々と巨石も突破できるのだが、それについていくヒュームの少年はたまったものではない。
「待ってよ、トビィってば!」
「やれやれ――。待つのは嫌いなんだよな」
そういって岩の上に座り込む。トビィ(つり目の少年)は頭の上に飛び出た獣の耳を弄りながら溜息をついた。
3分ほど経過してようやく友人が座る岩に辿り着いたヒュームの少年。ひどく息を荒げて大の字に寝転がる。
「さて、行くか」
「早いよ!ちょっと休・憩!!」
せっかちな友人の言葉に苛立って答える。まだ整っていない呼吸をどうにか収めることに必死だ。
「……まったく、どうしてこんな岩も軽く越えられないかね」
「アチューシャの君と一緒にするなよ!」
額に巻いたバンダナを弄りながら見下す友人を怒鳴りつける。全ての人種の中で最も身軽と言われるアチューシャと比べられたらたまったものではない。
寝転がっている少年に余裕は無いが、座り込んでいるトビィはこの位置から景色を見渡す余裕がある。
「は~、すごいなぁ。 あ、あそこ俺ん家だ。ほら、あんなに小さい」
隣の友に話しかけるものの、寝転がっている彼はそれどころではない。
反応が無いのでトビィはつまんなそうにその景色を眺め続けた。たしかに雄大な景色。でも、彼らはこの程度の情景を見るためにこの岩山を登っているのではない。
村に立ち寄った旅人が酒場で言っていた。
『ここは崖の端っこに位置している。ためしにあの窓の外に見える岩山を登ってみな。すっげぇのが見れるぜ』
山奥の田舎村でこれまで生きてきた彼らにとって、その世界が全て。でもその旅人は、世界はこんなものでは無いと彼らの価値観をせせら笑った。
旅人の何気ないその言葉は少年達の意地と興味心を大いに刺激し、彼らに行動を起こさせるに十分な言葉である。
だからトビィは村の全体図に感動はするも、満足はしていない。むしろこれ以上のものがこの世界にはあるのかと一層気持ちが逸ってくる。
「ほら、いつまで寝てんだよ、ウィル。早く行こうぜ――っていうか行くわ」
そう言い残してトビィはさっさと岩場登りを再開してしまった。
残されたヒュームの少年(ウィル)はどうにか半身を起こした。もういい加減疲れたので降りようかと思ったが、眼下に広がる景色を見てトビィと同じ思考を辿る。
ウィル(ヒュームの少年)は身を奮い立たせて岩登りを再開した。
それから何十分経ったことか。休憩と小競り合いを繰り返し、総計数時間の時を消化して、ようやく彼らは岩山の頂上に辿り着いた。
岩場の頂上に初めに立ったのは当然トビィ。さすがに疲れて息も荒ぶっていたが、岩場の天辺から広がる情景を目にしたとき、息をすることも忘れた。
「すげ……」
どうにか口からでたのはたった二文字。それ以上は口にできないほど、彼は圧倒されていた。思わずバンダナを取り、ギュッと手に握る。
「おい……。おい、ウィル!ウィルってば!!」
未だ到着しない友を呼ぶトビィ。ウィルは手から血を滲ませながら必死に岩を登っている。数分ほど遅れてようやく頂上まであと一歩のところに辿り着いた。
それを見て精一杯手を差し伸べるトビィ。ウィルはヘロヘロな笑顔でそれに掴まった。
二人は頂上でそれらを眺めた。そう、彼らは世界を眺めていた。
夕日がはるか彼方に沈んでいくのが見える。夕日は岩山に沈んでいくものだとばかり思っていた彼らは目を丸くした。
遠くに青色の大地が見える。それが何なのか、あれが噂に聞く“海”であると感づくのに暫く時間がかかった。
景色の果てが曲がっているように見える。星という概念、星は丸いものという意味が少し理解できた気がした。
目に映るもの全てが始めて、それでいて広大。しかし細かいところが見えないのが悔しい。
ちらほらと見える、人が住んでいるらしい場所。天高く突き出た棒のようなもの。立ち上っている煙……。
少年達は夕日に照らされた広大な情景をできるかぎり目に焼き付けた。
この景色は決して忘れない。いつか、きっと……。
「ウィル……」
「――」
「いつか、もっと近くで見よう」
「――」
「いつかきっと、二人でこれ全部みてやろう!」
「――――うん!」
夕日に照らされた二人は、夕日に染まったこの世界を眺めて話す。
少年達はこの景色に誓いをたてた。
夜の森は静寂。
山奥に鬱蒼と茂る森を切り開いて築かれた村。平野での種族間争いが嘘のようにここはのどかだ。
その、のどかな村から響く怒声。それは周囲の森をも震撼させる。
「この、馬鹿息子っ!こんな時間まで何していたのかと思ったら、岩山に上った!?馬鹿っ!!」
怒声と共に拳が振り下ろされる。それは少年の頭の耳と耳の間を的確に打った。
「いでっ!」
あまりの激痛にトビィは情けない声を出して蹲る。
「母さんがどれだけ心配したと思っているの!そんなに怒られたいわけ!!?」
(怒られたいわけないじゃん)
と心の中で母に反論するが、とても口にはできない。
「後でお父さんにもきつく言ってもらいますからね!!」
「ただいまー……って、どうした?」
木製の扉を開いてタイミング良く(悪く)父親が帰ってきた。今日は村の男衆による会合があったのでえらく帰りが遅い。
「あなた、聞いてよっ!!」
母親が頭部の耳をピーンとおっ立てて父親に迫る。父親は隣でしょぼくれている息子を見て大体把握した。
「はは~ん。またなんかやったのか?トビィ、ヤンチャするならばれないようにしろよ~」
穏やかに涙目の息子を諭す。
「この子ったらね、岩山に上ったのよ!あの南の岩山!!」
「岩山? へぇ、頂上までいったのか、トビィ?景色は見たか?」
笑みを浮かべて軽い調子で息子に質問をする父親。トビィは黙って頷く。
「落ちたらどうするつもりだったのかしらっ!ほんと、この子はそんなことも考えられないのかしらねっっ!!」
物凄い剣幕で息子を睨んだ後父親までも睨みつける母。父親が悪行を働いたかのような扱いだ。
「あ、あ~。そうだな。トビィ、そういうチャレンジをする時は母さんに一言言っていくべきだぞ」
「そうじゃないでしょっ!」
胸ぐらを掴む勢いで母が父に迫る。父親はトビィに苦笑いを送った後、そそくさと家の奥へと退散した。母親も怒鳴りながらそれについていく。
一人ぼっちで玄関にたたずむトビィ。彼は溢れる涙を拭って、静かに玄関の扉を開いた。
今日のメニューは川魚の塩焼き、それと粟。ウィルは部屋で一人、遅めの夕飯を食べている。差し棒を摘む手が痛い。岩肌でだいぶ傷つけてしまった。
薬草や巻き紙で一応手当てはしておいたが痛いものは痛い。こういうとき母親がいるともっと上手に手当てしてもらえるのかな、と考えたがいないものはしょうがないので考えるのをやめた。
食事が終わるとそろそろ就寝の時間。いつものように育ての親である婆(ババ)の御守り紙に手を合わせる。紙の上には婆の遺骨で作られた宝石が一つ。
今日一日の報告をしていると、旅人の男の言葉がよみがえる。
“世界はこんなものでは無い”
それを言った旅人の顔は思い出せないが、彼が背中に背負っていた大きな弓は忘れられない。
ウィルを生んだ女は世界を放浪する旅人だったらしいが、その人は見てきたのであろうか。今日見たあの広大な世界を。そして、なぜ自分はこの村においていかれたのであろうか。
どう問いかけても婆は答えてくれない。生きていてもいつものように「どうだかねぇ……」と、シワだらけの笑顔で答えるだけだろう。そして頭を撫でてくれる。
思い出していたら、少年の瞳に涙が溢れてきた。
ウィルはもう一度手を合わせると、涙を浮かべたまま煎餅布団に入った。
それは偶然のことであった。彼は普段から他人が理解しにくい不規則な行動を心がけているが、この日彼がここにいることは本当に偶然であった。
深い森の夜は静かで、その大音響は彼の心を静めてくれる。
枝が折れた。折ったのは一匹のファング(狼)。ファングは腹を空かせているのか、鼻を地面にこすり付けて必死に得物の匂いを嗅ぎ取ろうとしている。
ファングが近づいてくる。匂いが近い。すぐそこにいる。大木に寄り添っている男の方へと着実に近づいていく。
男の背後へと音も無く、静かに近づくファング。無音の森で無音に行動することがいかに難しいか、それをこなす野生のファングは森の狩人たるに相応しい。唯一の失態である“枝折り”にも、男は気がついていない。
姿勢を低く構える。ファングの射程距離に得物が入った証だ。
そこからは微動だにしない。得物が完璧な隙を見せるまで、ファングは動かない。
ふと、男が空の月を見上げた。
瞬間、ファングは腐葉土を蹴り、低く宙を跳んだ。得物への最短距離を最速に、緩い放物線を描いて跳んだ。
『キャウッ!!』
静寂な森に響く悲痛な悲鳴。ファングが狩りに成功した証だ。
ファングの口元には血の滴るエミット(野ウサギ)が咥えられている。のど笛を深く噛みこまれたエミットは痙攣して虚ろな表情を浮かべる。
男は目の前に展開するファングとエミットの食物連鎖にも、自分の体とそれを通り抜けたファングの体の物理的問題にも、まったく興味を抱かない。ただ、空を眺めている。
エミットの息が絶えた頃合、周囲の草陰から数匹のファングが躍り出た。どうやら横取りを狙っていたらしい。
得物の醜い奪い合いが始まる。
男は手にしている大鎌を夜空に掲げた。
「いい夜だ……」
生々しい情景の中で、男は一言呟く。
「ウィル、ウィル!」
微かに聞こえてくる、少年を呼ぶ声。
眠りの世界に半分足を突っ込んだところでウィルは現実の世界に引き戻された。
「ウィル、おい、ウィルってば!」
何やら窓を叩いて少年の名を呼ぶ人影。それは彼の友人トビィである。
寝ぼけ眼を擦って窓を開けるウィル。
「な~に?どうしたの、こんな時間に」
正直疲れたのでさっさと寝たい時分。叩き起こされるのは迷惑だ。やや不機嫌気味に対応する。
「冒険に行こう!」
トビィは興奮気味に言い放った。その言葉を理解するのに数秒。
「……冒険?」
「そう、冒険!旅立ちだ!」
「……今から?」
「今からっ!」
やたらと目を輝かせているトビィ。対して、眠すぎて死んだ魚のような視線を送るウィル。
「ほら、出発だ!」
反応が悪い友人を促す。が、ヒュームの少年は眠そうに欠伸をかくだけで、非常にやる気が無い。
「……なんで今なの?」
「いいから!今行こう!」
ウィルは解っていた。トビィが発作的に何かを提案する時は、それに対して特に深い思慮も無く「それがしたい!」という衝動だけで提案しているということを。だから昼間の時も「今から岩山を登ろうぜっ!」などと無茶な提案をしたのだ。
だが、今は状況が違う。夜、それも満月の夜。
この村の大人たちは子供達に詩って聞かせる。
『夜は漆黒わしらの時間♪
森は漆黒わしらの場所♪
人はおらんか、人はおらんか
助けておくれよ、助けておくれ
歯を磨こうわしらの牙♪
爪を磨こうわしらの爪♪
ほれ来た、ほれ来た人が来た
助けておくれよ、助けておくれ
わしらもう……――腹が減って死にそうじゃぁっっ!』
最後の部分は特に強く、子供が泣くくらいの勢いで言う事がポイント。
村の大人たちは夜の森の危険性を知っている。だから、子供達に幼いころからこうして忠告するわけだ。
ウィルも幼い頃婆にこれをやられた。布団の横で穏やかに子守唄を歌っていると思ったら突如、シワだらけの顔が歯をむき出して「腹が減って死にそうじゃい!!!」……と来たので強烈なトラウマとなった。今でも時々夢を見る。
だからこんな日の落ちた時間に村を出るなど……。村を出るにはどうあがいても森を通るのでウィルとしては非常に気が乗らない。というか無理な話である。
「……明日にしようよ。夜は危ない」
「今じゃないとダメなんだ!」
「どうしてさ」
「…………」
急に黙り込むトビィ。さっきまでの威勢はどこへ。
「?」
「母ちゃんが……」
「母ちゃん?」
「――――やれやれ、どうしてって。あの景色を見てじっとしていられるかよ。そうだろ?」
気取った調子でポーズを決めた。
「おばさんに怒られたんだね」
ウィルの的確な一言で硬直するトビィ。ジッと半開きの目で見つめられ、思わず視線を逸らした。
「だからあれほどやめておこうって……」
「うっせぇ! ――もういい、一人で行くからさ!!」
舌を出して睨んだ後、そのまま駆け出すトビィ。
夜の闇に消えていく友人の後姿。それを見送った後、ウィルは欠伸をして布団に戻った。
満月に照らされて一人岩場を歩く。当てはなく、ただ放浪する日々。
血塗られた、光ある刀剣だけを頼りに世界をうろつく。
いつか、きっと巡り会えると信じて――――。
やはり暗い。
松明も持たず、火を起こす手段も無い。引き返そうかと思ったが今更決意を揺るがすわけにもいかない。きっと戻ればウィルに「やっぱり」と笑われるだろう。
トビィは何とか物の輪郭が判別できる程度の視界で、夜の森を彷徨っていた。それでもアチューシャであるトビィはこの闇に強い方だ。色は判別しにくいが、僅かな明暗で輪郭を判別できるし、聴力はエルフくらいしか並ぶ者はない程優秀。
額に巻いていたバンダナは置いてきた。信頼の証として。
どれほど彷徨ったことか。無音の暗がりを一人で歩き続けていると孤独を感じて、泣きそうになる。せめて話す相手がいればいいのだが、森の中で独り言を呟いても何一つ言葉は返ってこない。
頻繁に背後を確認する。何か、見えないお化けが後ろにいるようで怖い。
一歩一歩踏み出すたびに左右をキョロキョロと挙動不審に見渡してみる。何かいるのかもしれないが、そもそもよく分からないので確認すればするほど恐怖が強まってくる。
意識が集中しているようで全然集中していない。状況の把握なんかより、恐怖の憶測をするのに一生懸命だから。そしてそんな散漫な意識だからこそ、トビィはこけた。
「てっ!」
森の腐葉土の上に倒れこむ。何に引っかかったのかは解らない。「誰かが足を掴んだ……」なんて空想が頭をよぎる。恐怖に怯えていると空耳のように聞こえてくるあの詩。
“夜は漆黒わしらの時間。森は漆黒わしらの場所……”
母親にしか聞かされたことが無いのに、なぜか別人のような声で耳に聞こえる気がする詩。あまりの恐ろしさに小便をちびりそうになるが、巨大な恐怖は時に人の勇気を呼び覚ます。
「わけないやっ!こんなもの!」
立ち上がって景気良く足についた土を払う。そしてトビィは胸を張って歌を歌い始めた。
『夜がどうした怖くないっ! 森がどうしたかかって来い!! 俺はトビィだ冒険者!!!』
単純なフレーズの繰り返しだが、少年は震える喉で精一杯声を張った。
何度も何度も繰り返して歌っていると、喉の震えもおさまってきた。なんだか視界もさっきよりよく見える気がしてくる。
トビィは勇ましい足取りで――時折木の根に足を取られながらも――夜の森を闊歩していく。
「なんだい。たいしたことないね、森なんて。ウィルの弱虫めっ!」
調子に乗って大言を吐く。
「どうせなら魔物でもお化けでも出てこいっ……」
“ウォオオオオオーーーン!!!”
森中に響き渡る遠吠え。
「…………」
言葉が出ない。トビィは股が縮こまったのを感じた。押し込めていた恐怖が蘇ってくる。
「…………こ、怖くないっ! 森がどうした夜がどうした!俺はトビィだ冒険者っ!!!」
トビィは歌を歌って必死に恐怖を押さえ込む。
彼が溢れる涙を堪えて再び歩み出した時。それは低い姿勢で得物の隙をうかがっていたファングが絶好の機会を発見した瞬間だった。
布団に入って5分。眠かったはずなのに、ちっとも眠れないウィル。
トビィは突発的に突飛なことを提案するやつだ。そこで何が問題かというと、それを大抵実行に移してしまうことが問題なのである。
「集会の最中に集会場に忍び込んで村長にカンチョウをする」と言った時はまさかと思ったが、見事に成し遂げた。その時は夕飯時に報告に来たが、非常に得意げに自分の武勇伝を誇っていた。むしろウィルとしてはその翌日にトビィの家から響いてきたトビィの悲鳴と母親の怒声の方が印象に残っているのだが。
きっと今頃トビィは一人で森の中にいる……。そう考えたら不安で寝てなんていられない。
このままほっておいて明日トビィに会えるだろうか。もしものことがあったら……。
しばらくうなっていたウィルだが、意を決して飛び起きた。そして雑貨入れに入っている電石(電気が蓄えられており、強い衝撃を与えると一定時間発行する)を一つ手にとって家を飛び出した――が、一度家に戻る。
ウィルは婆の宝石を大事そうにポケットにしまいこんで今度こそ家を飛び出た。
家を飛び出たはいいがさて、どこに行けばいいのか。村から森へ出る場合、村の正面から出るか・村長宅の隣を通るか・岩山の手前を右に(岩山を見る方向で)曲がるかの3つが主だ。村長宅はなんとなく行きそうにないし、村の正面はトビィの家が近いので通らないだろう。そうなると岩山か……。
しかし、ウィルはそれらとは違う道を選んだ。演説広場を抜けた先に子供たち専用の道がある。なんで専用かって、村の囲いの隙間を通るのだが、子供じゃないと通れないからだ。そして、その隙間を見つけたのはトビィ。
トビィはその道を通ったに違いない、とウィルは走り出した。
演説場を抜けるとオポ(友人A)の家がある。その庭をこそこそと抜けて、秘密の道に辿り着いた。そしてウィルは確信した。なぜなら隙間の前に、トビィのバンダナが引っ掛けてあったからだ。
ウィルにはそれが自分への合図なのだと即座に理解することができた。
秘密の道をくぐるとそこはいよいよ漆黒。足が竦んで中々その場を動けない。トビィはここを進んだのかと思い、ウィルは彼をちょっと見直した。そしてこの先でトビィが待っている、もしくは何か非常事態に見舞われているのではないかと思うと、自然と体が前へと進んで行く。
ここでハッと気づき、手にしている石を木の幹に思い切り打ち付ける。
ぼんやりと輝く電石。これで視界はかなり良好となった。そして、へたに周囲が見えるので怖さも倍増した。
怯えながらも足元は見えるので進む速度は速い。不安なのは、トビィがどっちに向かったのか検討もつかないこと。地理のある程度までは大人との狩りなどで把握しているが、人探しの場合、手がかりが無いとどうにもならない。
闇雲に歩いていると微かに声が聞こえてきた。戦慄したが、ウィルはその声に耳を傾ける。何度も繰り返し聞こえてくるその声は、よくよく聞くと聞きなれた声……。
「トビィ!」
ウィルはその声の主がトビィであることに気づき、歓喜した。声は森の奥から聞こえてくる。陽気で、自信に満ちていて、トビィらしい歌だ。
歌の聞こえてくる方角を目指してウィルは駆け出した。
だんだん声が近くなってくる。トビィが近い!
“ウォオオオオオーーーン!!!”
森に響いたファングの遠吠え。
身が竦む。ウィルはその場で立ち止まった。嫌な予感がよぎる。やはり、夜の森は不吉だ。
「だからやめとけばよかったのに!」
ウィルは駆け出した。恐怖を克服したわけではない。はやく仲間と遭遇したいからこその疾走であった。
鼓動が早まる、息が詰まる。ウィルは暗がりの森を駆け抜けた。
「トビィ、どこ!? トビっ……!!」
言葉が止まる。
ウィルはその場に倒れこんだ。いや、背中から重圧を受けて押さえつけられたといった方が正しい。とっさのことに、電石は手を離れ、転がっていく。
「うわ、なん……ぐっ!!」
口を押さえ込まれた。必死にもがいて逃げようとするウィル。
「おい、落ち着けって!静まれ!」
「!!?」
押し殺されていて、それでも必死さが伝わる声。それがトビィだと振り向く前に解った。
「トビィ!」
「しっ、静かにって!ばれる!」
遠ざかった電石の微かな光に照らされて、友人の顔が闇に浮かび上がる。
「――ファングだよ、ファングがいるんだ。危うく食いつかれるところだった」
「ファング?そりゃ森だもの、いるさ」
「何冷静に言ってんだよ!」
不思議と落ち着いているウィルは笑顔。先程まで死に物狂いで逃げ回っていたトビィとしては挑発にしか思えない。
「とりあえず、逃げるぞ!」
「村に戻るの?」
「……仕方ないだろうな」
非常に不本意なのか、トビィは眉間にシワを寄せてボソリと呟いた。
「とにかく、ここを離れよう」
「じゃ、あれ(電石)を……」
「ダメだって!あんなの持ってたらやつらにバレバレじゃないか!」
「でも、あれが無いと暗いし……」
「やれやれ、これだから困る。ホラ、行くぞ!」
強引にウィルを引っ張っていくトビィ。二人は電石の光の届かない森の闇の中へと向かった。
見えない闇の中で頼りになるのはアチューシャの耳と目。目立って特別な機能が無いヒュームには木々の輪郭も、獣の息遣いも聞こえない。ウィルはしょっちゅう木や石に引っかかりながら賢明にトビィの後ろを追いかけた。トビィも頻繁に立ち止まってはウィルを待つ。
「何してんだよ、早く、早く!」
「だから…アチューシャと…一緒に…するなって…ば」
ゼヒゼヒと息を切らして暗闇を手探りで進むヒュームの少年、ウィル。とてもではないが駆けることはできない。
「ふぅ。これだからヒュームはさっ、取り柄が無いなんて言われるんだよ」
少しイラついた調子でトビィが悪態をつく。
「なんだよ、その言い方!」
どうにか息を整えてウィルが声を張り上げた。
「こうしてこんな時間に森の中を走り回っているのは誰のせいだ!いつもいつも好き勝手にして!」
「わかった、わかったよ――っ!? ウィル、後ろっ!」
「えっ!?」
トビィの驚愕した態度を見て、とっさにウィルは振り向いた。しかし、そこには特段驚くような出来事はない。ただ静寂があるだけ。
ウィルは大きな溜息をつき、トビィは楽しそうにニヤついた。
「夜がどうした怖くないっ! 森がどうしたかかって来い!! 俺はトビィだ冒険者!!!」
トビィは快活に、高らかに歌い始めた。ウィルはそのことに驚いたが、なぜか「静かに」と諌めようとは思わない。それはきっと、相棒の勇気が彼にも伝わったからであろう。
周囲には深く沈む夜闇の森。聞こえる音は木々の囁きと夜の鳥の鳴き声。森をうろつくエミットは小虫や木の実を食み、浮ぶ月を見上げる。
少年二人は時々小枝を踏み折り、枯葉の積もった土を踏みしめながら歩き始めた。
2、3歩いてから立ち止まるウィル。彼が見上げた空・・・・・・
鬱蒼と茂いる枝葉は『額縁』
月が浮ぶ夜空は一枚の『絵画』
暗がりの森は自然の『美術館』
鳥と木々はさざめくことで思いを伝え合い、
見上げる少年は素直なまま、言葉も発せずに絵画を眺める。
天然のミュージアムは穏やかで、されど冷たく鑑賞者を試しているかのようだ。
・・・少し先を行くアチューシャの少年が振り返ったとき。ミュージアムの無法者
は四足を躍動させ、月を眺めるヒュームの少年に襲い掛かろうとしていた。
青い瞳のオード=ヴァンは今日も1人、闇の奥地で丸くなっていた。
独り立ちが近くなった子供達は父親の腹に蹲り、眠りこけている。
きっと、大人になれば今こそ瞳をぎらつかせ、森を彷徨っていることであろう。
今、子供である彼らは彼ら“種”の時間にのんびりとイビキをかいて眠っている。
眠る子供らの毛並みを一通り舐めた後、父は悠然と巣穴を歩み出る。
同族の灰毛はその姿すら現さない。
薄ら青く、月の光に照らされさらに銀をおびて輝く毛並みに恐れをなすからだ。
気高きオード=ヴァンは森の一画に立ち寄った。
今宵も子供は元気だと、今宵も自分は健在だと、骨だけになった妻に報告する。
言葉は音の波ではない。それは伝えたいと思う気持ちと、伝わる気持ちである。
妻の亡骸に額を付けて、わずかでもの温もりを伝えてもらう。
挨拶の後に四足は駆け出し、空腹の子供らを想う。
風切りのオード=ヴァンが走る姿は森の精霊達に畏怖と感動を与えていく。
“ウォオオオオオーーーン!!!”
森の小高い一画に立ち、一際大きな声で、森の長である彼だけに許された合図を鳴らす。
合図と共に彼の周囲にある虚空は裂け、巻風が崇高なる毛並みを震わせた。
青き瞳に月を宿らせ、銀色の毛並みを逆立て、周囲の大気を切り裂き、力強い爪を大地にめり込ませて。
灰色ファングの長は、彼の時間が訪れたことを森の全てに威風堂々と知らしめた。
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