力の種類を大まかに分類すると……
1GPを利用した力
2粒子の発生を利用した力
3体内に存在するエネルギーを利用した力
4グダの力を引用する力
……大体こんな感じである。では、一つ一つ説明していこう。
1GPを利用した力
魔法と呼ばれる力のうち、最も可能性が高いものがこの力だ。世界のあらゆる空間、存在の裏に存在しており、どこにでも平等な現界の外側の世界、GPから存在の元を引っ張り込み、使役する力。条件として使用者は、GPがここにあると理解はせずとも完全に知っていなければならない(本人には当たり前のこと過ぎて知覚も表現もほとんどできない)。さらにこの世界に作り出したいその存在をも完全に知っていなければならない。その人知を超えたスケールから他人にその技術を教えることが難しい。
宗教などで説かれるものや、神通力といった類はここに属するものが多い。ただ、先ほども述べたように人に教えることはほぼできないので、ヒントを与えるくらいのことしかできない。誰でも使えるようになる可能性はあるが、そこにたどり着けるかどうかはまったくの運、流れ任せである。また、一つがわかったからといってその他が次々と理解できるものではない。
この能力の得意とする分野は物質の練成と空間生成である。特に物質練成の分野では他を圧倒するほどの可能性と最大出力を誇る。空間生成は「空間」という現界の土台そのものを新たに生成することを意味し、その人の想像しうる最も得意な世界を展開する。
能力の使用で消費するものは使用者の精神的なものである。この能力を使うということは簡単に言うと「ものすごく、必死に想像する」ということであるため、徹夜でテスト勉強といった感じで疲れる。理解度によってその疲労度は変化し、当然より強力なものを作ろうとするほど疲れる。そういった面では限度があるが、もとのGP自体は無限なので(0の逆転の理論。面倒くさいから省く。)そういった意味で可能性が高いと言った。この能力の重要な欠陥としては外の世界を中心に回す能力なので、現界に直接干渉しなければならない概念や現象を操作することができないということだ。最も非現実的であるがために、最も可能性があるが最も現界から離れた能力だといえる。
また、空間生成を利用して時間を操作することもできるが、時間を戻すことはできない。純粋にエネルギーや熱量だけ生成しようとしてもあまり効率はよくない。
2粒子の発生を利用した力
第一章で述べたとおり、一見何もない空間でも粒子は出たり隠れたりを繰り返している。この時粒子は新たに発生しているのではない。完全な無になってしまったらもう、現界に出現することはできない。粒子が出現するのは元から存在しているものが見える形で出てきたということに過ぎない。つまり、元からあらゆる存在していることが解かるものがある場所以外の全ての空の空間に粒子は存在しているといえる。実際、粒子の出現の実験は真空状態で行う。よってこの能力は粒子の発生、隠匿を利用して物質を精製、消滅させることを得意としている。
物質精製の面で必要な素材として……
1真空の空間、 2高エネルギー、 3物質構築の際の反応と構成素材の知識
……が必要となる。1に真空の空間が必要とあるが、これはこの能力を使って物質を精製するにあたって最も基本となる。この技能の基本は物質の分解消滅なのである。これにもエネルギーは必要となるが、最初の一瞬だけ反応を起こせば連鎖的に消滅させることができるので、はたから見ると「なんか光り続けているなぁ」程度になる。しかし、その光はコンマ的な速度(ていうか光)で分解が始まっていることの証なので大変危険だ。一歩間違うと使用者本人が消えかねない。
また、ただ分解するといっても複雑さが付きまとう。例えば空気を分解するといっても位置によっては構成元素が違ってくるので、それにいちいち対応しなければならない。
この能力の使用者は分解する対象の刻々と変化する構成素材を意識の中で捉えなければならない。よって、自力で分解作業を行える使用者はこの世の物質がその構成元素の塊として映ることとなる。その上で分解していく。また、先ほどから言っている「分解」とは原子を粒子(電子や陽電子)に変換するということを意味する。粒子をさらに細かく分解することはできない。また、分解したまま放っておくと粒子の大部分は水素とヘリウムになる。つまり、空気になる。
条件の範囲内であれば決まった原子のみを分解することもできる。つまりこの能力の使用者は分解能力を極めるだけで十分な効果を発揮できる。
分解したあとにできた純白の空間に今度は物質を構成していく。この作業を急がなければせっかく分解した原子が再び結合して空気になってしまう。水素、ヘリウムなどからでも精製はできる。できるがそれには莫大なエネルギーと嫌ほどの工程が必要となる。分解した時に得たエネルギーを利用して粒子を強引に様々な原子に構築して反応させて物質を精製したほうが効率的だ。しかし、これを何の助けもなく自分の力だけで行うことはほぼ無理だと言い切っても良いだろう。何せ分解、精製の過程は一瞬の出来事であり、その内容も複雑でやることが多い。だから一般的に考えると反応を専門とした機械や多人数での時間をかけた精製が一番妥当な作業工程だと思われる。
この能力の利点としては機械任せにできるところであろう。この技能をテクノロジーとして応用すれば文明の発展に大いに役立つし、大衆に馴染みやすい。よってこの技能が魔法と受け取られることは、他と比べると少ないものとなる。
ここまででも解かるとおり、この能力は化学的なものである。つまり、現実の世界でありえなくないものと言える。できないのは単にそこまで科学力が到達していないだけである。この能力は科学の延長上だともいえるし、科学の一部ともいえる。
3体内にある力
気、オーラ、念力。これらはみな、人や生物の中に存在している力である。存在原理としては「生きているから」、これに尽きる。全然意味がわからないが、そういうことなのである。
「生きている」ということは体内の代謝や臓器の働きだけで成り立っているものではない……そういうことだ。だが、正確には生きているということを私たちの普通考える意味で計ってはいけない。いったい、どこに生き物とそうでないものの区別があるのだろうか?
例えば、クローンを作るために牛から採取された血液や皮膚の欠片は生物か?それはこれから新たな生物(もっとも、姿は同じだが)の一部もしくはきっかけになることに違いはないものだ。そんな体の一部なんて生物じゃないやい、と思うかもしれない。
では、細胞は?体の一部だがなにもしないわけではない。確かに活動している。緑虫はどうだ?生物の教科書に微生物として紹介されているくらいだから生物なのだろう。この、単細胞生物という1つの細胞でできている生き物は生物で、人間の体を構成している細胞は生物ではないのか?自分で考えて行動すれば生物なのか?では、PCゲームで最近あるPC対戦時の人工知能は生物なのか?ということはそれが刷り込まれているディスクも生物なのか?ア○ムは生物ではないのか?地球そのものだって元気に活動してるぞ?生物って、何だ……?
生物という言葉は人間が考えたものだ。生きているという概念も人間が勝手に抱いているものだ。実際には人間もミジンコも溶岩もタバコもラフレシアも空気も水素も真空も、それらに共通なものは存在しているということだ。こんな壮大なことを言い出して、何が言いたいのかというと「存在しているものは皆、生物」……ということだ。メチャクチャなことだと思うかもしれないが、これは解かり易くするために生物という言葉を使っているだけであり、実際に言いたいことは「存在しているもの全てに生態エネルギーはある」ということだ。それを受けて、このエネルギーのことを「存在エネルギー」と呼ぶこととし、その技能を「存在力」と呼ぶことにする。ちなみにこの理論から無機質のものにも存在エネルギーはあるということになる。なんだかアニミズムの理論に似ている。
さて、今まで力と関係のなさそうな何やら妙に哲学的な話をしてきたが、それは先ほどの「存在するものすべてにエネルギーが備わっている」という結論を提示しておきたかったがための寄り道であった。
実際に物質をエネルギーに変換すると莫大なエネルギーに変る。その原理を応用しているのが核融合などの原子力である。原子力と聞いて危険なイメージがやや出てくるかとも思うが、生身の人間がそのレベルの存在力を使用することはあまりない。もしあったとしたら「自爆」技になるが、それでもそのすべてをエネルギーに変換することはできないだろう。もしするのなら、ひたすらオノレの肉体を変換する訓練をして一世一代の爆発を、できるかどうかもわからずに一度放って威力は運任せという感じになる。
では、主に存在エネルギーはどのように使われるのか。一番ポピュラーなのは自らの強化である。硬くしたり、筋力の瞬発力を補助したりする。さらに、代謝を活性化させて肉体の修復や機能の増大化も行う。ここで一つ言っておきたいのは、ここまではあくまで体内にあるエネルギーをかき集めて使用しているだけで、肉体の物質そのものを変換しているのではない。肉体を削るのはその先の段階である。
肉体から物質を剥ぎ取って変換していくと、今度は高エネルギーが発生する。他の化学的技能の中で反応を始めるときに使用することもできるほどの高エネルギーである。しかし、扱いを間違うと自分も吹き飛ぶし、足りなすぎて反応が終わったりする。
この技能は訓練すればまるで四肢を自在に操るかのように使うことができる。才能がなくとも、努力と指導者によってある程度まで伸びることができる。つまり、だれにでもどんな生物にでも使用可能なものなのである。さらに、機械であっても専用の機能を付ければこの力を使用することができる。
物質のエネルギー変換がこの技能の中心となるが、これは何も自分を削るだけではない。他の物質をエネルギーに変換することもできる。変換には自分の体からエネルギーを集め、そしてそこから徐々に肉体をエネルギー化する変換を始め、そのエネルギーを使って物質を変換し始める。この利点は自分を削る量が少なくなる所だ。そして変換したエネルギーを空気で磨耗してしまう前に再び変換、変換を繰り返して取り込み、自らのエネルギーと化すこともできる。一度この反応を起こしてそのまま体内でエネルギー変換の連鎖を無駄なく素早くし続ければ、エネルギーは増える一方となる。これを「食回」といって、存在力の至高の技となる。
後は自分の存在を確立して食回を続ければ自分そのものがエネルギーとなる。それによって、他の技能と混ぜて姿を変えることもできる。存在力の究極のところは自らが高エネルギーそのものになることにある。人間でもここに辿り着くことはできる。そういったものたちは仙人などといわれたりするが、その中でもこの域に完全に腰掛けることができるのはほんの一部に過ぎない(ちなみにこの状態は隔世ではない)。
存在力の欠点はその反応の遅さだが、上手くすると尻上がりに加速して増大していく。誰でも使えるが、その反面それ一つではいまいち汎用性に欠ける。その分他と組んだときの応用力は素晴らしいものがあり、他の技能にとってもあると便利な存在である。存在力は様々な技能の中で、最も基本的なものだと思われる。
4グダの力の引用
グダとは即ち、この世の物質全てと考えられる。そしてそれらにはそれぞれ意思があり、それを統合する者もいる。地球もグダであり、太陽もグダである。そして我々もグダによって作られたものである。グダの力を引用するということは、グダの力を借りるということに他ならない。グダがいちいち自分の力が使われてる、いじられてるなど感じはしないと思うが、あまりド派手に使用すると異変に気づいて蚊を振り払うかのように危害を与えることもある(まぁ、「我々の住むレベルの銀河を一つ精製する」程度のことなら気づかれないかも……それほどグダは広大な者)。
グダの力を使うにはまずグダの存在を知らなければならない。そしてグダとはどんなものかを抽象的にでも理解する。そして最終的には自分の周りにあるもの、見えるもの全てがグダなのだと理解する。そしてグダの要素があるものを使役する。言ってみれば自然を扱う力ということだ。
大気を作り出すことができたり人を作ったりできるが、それはグダの本体にアクセスして意思共有状態にならないといけないので、実際にやろうとすると周囲からグダの意思を読み取り、そこから精製するしかないのでやっても中途半端なものができてしまう。
そのほか、この世に存在するもの全て精製できるが、それはどれだけグダに近づくことができるかによって出来が決まる。つまりグダは世界の大元にあるコンピューターの本体のようなものであり、様々な事象を忙しなく行っている。そこに、こそこそと近づいていってさりげなく自分の作りたいものを作らせるということになる。
とどのつまり、この力は実際に練成するのはグダで、そのための素材を自分で用意するという他力本願的な力だといえる。グダの意思に近づけば近づくほど、しだいに練成のためのエネルギーや素材も勝手にやってくれるようになる。しかし、先ほども言ったように、あまりグダに近づきすぎると払い落とされるので、きちんとした手順とタイミングを知らなければならない。これがこの能力で一番大切なことだ。
この力の欠点は、グダに取り次ぐまでの時間にムラがあり、時によっては失敗もしてしまうことも多々あるということだ。これはどんなに高尚な使い手でもありがちなことだ。
この能力はどんなに極めてもこれ単体では自分の力のみで練成を行うことはできないので、このことは避けられない。だが、他と組み合わせれば今度は原理がわかっているだけに、練成がしやすくなる。主にこの力は錬金術などと呼ばれたりする(別に、物理のほうを錬金術と呼んだりもする)。
4.存在点。
一つの固体としての境目はどこにあるのか?それは存在点で決まる。それに付随してゼロの座上(隔世、存在世界)についても記載しておこう。
いままで+や-、GPや0、無や現界などの定義について述べてきた。ここまでは現実的に考えうる世界のことだ。次に説明するのは現実に存在するとは考えにくい、空想的な設定世界である。事実のことだとはあまり考えないでもらいたい。あくまで神話の通用する世界での話である(ここで言う神話とはグダ神話のこと)。
ここまでに述べてきた世界を総じて実界と呼ぶことにする。この実界は主に空間、時間の存在を不可欠とするものだ。一方の「存在世界」はそれらのことをさほど重要とはしない。この世界にとって大事なことは位置ではなく、何処までを区切りとするかである。
物が存在している場合、それがはたして何なのか?それを定義する、できるのはこの世界が根拠となる。
例えばそこに一人の少年がいるとする。彼という存在を定義する時、物質的にそれを細かく見てしまうと、彼は何ものなのか訳が解らなくなる。一人の人間なのか?幾つもの細胞か?無限に思えるほどの粒子たちか?……細かくしただけで、それらは全てその少年を表していることには相違ない。ここで「彼は一人の人間です」とキッカリと宣言するものが存在点である。存在世界を実界と重ねて見たとき、存在点がそこに在ればそれはそういうものだと存在を確定されたことになる。つまり、存在点とは一つのお椀であり、そこに入っている「ご飯」が少年、ご飯粒一つ一つがそれを構成するものだと例えられる。
ここでお椀の中に一つぶの米粒しかなく、そのお椀が無数に並んでいるとするなら。その少年は少年ではなく、無数の構成物質たちの集合体だと定義されることになる。
ここまできておよそ浮んでくるであろう最大の疑問、それはどのようにしてこの存在点の範囲が決められているのかということだろう。この時、存在点を構成する一つ一つの構成物質点を最小点と呼ぶ。その最小点の集合体である存在点をまとめるもの、いわば接着剤のような概念。コレこそ我々が想像する「魂」である。
想像世界である存在世界において存在する魂。それはある一定の構成力を持った最小点の集まりに発生し、それらをひとまとめにする。そして魂によって接着された最小点の集まりである存在点こそが、生命である。つまり生命体とは「魂を使って接着された存在点を持つ実界にある存在」ということになる。生命体が死ぬということは、存在点の接着剤が剥がれ落ちて瓦解することでその意味を成す。
存在力が使用できるかどうかは存在点の有無によるものなので、魂が無くても使用可能である。
もうひとつ、最小点を集める役割を持つものがある。それは「命(銘)」と呼ばれるもので、魂とは違って最小点を囲ってひとくくりにするケースのような概念だと思っていただきたい。これで囲われているものは「確定物質」と呼ばれ、「物」として存在している。生命体と非生命体で区別があるように、物と物質とでは意味が違う。物質とはあくまで粒子の集合体であり、集合体としての銘は冠せられてはいない。それをくくらなければ物とは言えない。物と言えないということは、その集合体は一つのものとして認められていないということになるので、存在的に非常に薄い。
……と、ここまで命に関して書いてきたが、確定物質というものはあくまで生命体が知覚する為の判断材料の一つである。厳密に言うと命という概念は実際には存在していない。イメージに過ぎないものなのである。つまり「命(銘)とは名のこと」である。
しかし、銘の概念、とくに「確定する」ことは非常に重要な事柄なので実際にあるなしを抜きにしても要チェックしとくべきことなのは確か。憶えておくと良いです。
PR